2016年に右足アキレス腱断裂、そしてロッテから戦力外通告を受けた大松尚逸。
一度は崖っぷちに立たされ苦労人が
1110日ぶりの一発で試合を決めた。
苦労人の劇的サヨナラ弾で試合と決める
決着をつけたのは、苦労人大松の一振りだった。延長12回、代打・大松が6番手・中田の4球目を強振すると、打球は右翼席に向かって一直線に飛びスタンドに入った。
3年ぶりの本塁打は、7年ぶり2本目のサヨナラ弾。
試合後のヒーローインタビューでは、
「感無量です!!」
と叫んだ。
昨季右アキレス腱(けん)を断裂。ロッテを自由契約となり、テストを受けてヤクルトに入団。
プレーする機会を与えてくれた球団への思いは人一倍強く恩返しの一発となった。
勝利の女神も球場に駆けつけており、父・三郎さんと敦子夫人が今季初めてのスタンド観戦。支えてくれた夫人への、感謝の気持ちでもあった。
大松尚逸 プロフィール
出典:https://baseballking.jp/ns/110361
身長 184cm
体重 93kg
血液型 B型
経歴 金沢高 – 東海大 – ロッテ05年~16年 – ヤクルト17年
ロッテ時代は『満塁男』と呼ばれた男
東海大学から04年のドラフト5巡目で千葉ロッテに入団した大松。当時の監督はボビー・バレンタイン氏だった。
打撃を買われてプロに入りしたので、当時の指導方法は自分が良いと思っているやり方を大いに生かしてくれって感じで、技術的なことは全くいじられることがなかったという。
同期入団には社会人野球の三菱自動車岡崎から入った竹原直隆がおり、将来のクリーンナップ候補として共に徐々に2軍で好成績をあげていった。
プロ2年目となる06年。4月15日の対西武ライオンズ戦から1軍に昇格すると、さっそくその日からスタメン出場を果たし、西武・西口文也から放ったプロ初ホームランは逆転満塁のおまけ付きとなり、これをきっかけに「満塁男」と呼ばれるようになった。
その勢いで06年、07年と1軍での出場機会を徐々に増やしていった大松は、08年にはついに1軍に定着。プロ初の規定打席到達も果たし、24本塁打、91打点を記録した。
しかし、近年は故障や打撃不振に苦しみ、出場機会が減少。
自身の運命を変えたアキレス腱断裂
「俗にいう「パン」とか音はしたのかもしれないですけど、感覚としては結構鈍かったですね。その瞬間はダメなものが切れたんだなって感覚はありましたけど、最初はそれほどのものとは思わなかったです……」
自身の運命を変えることになったアキレス腱断裂の瞬間について、大松尚逸はそう述べていた。
その時はなにが起きたのかわからなくて、最初は肉離れと思った。
足首を見ると全然機能していなかったが、でもアキレス腱を切る大怪我にも限らず痛みは全くなかったそうだ。
だだならぬ事態にチームメイトがタイムをとって大松に近寄ってきたのだが、その時アキレス腱が切れていることを言われ気づいたそうだ。
戦力外通告でさらなる追い討ちが
その年の10月初旬、ロッテから戦力外通告を受ける。
その時は野球を辞めるかリハビリをして続けるのかで悩んでいたという。
でも、やっぱり心の中に『お前、それでいいのか』という気持ちが強く、最終的にはそこを無視して次に進むことが出来なかった。
悩み抜いて出した答えは、「引退」ではなく「戦力外」の扱いにしてもらいリハビリを続けながら現役の道を模索することが最終的な答えだった。
過酷なリハビリを乗り越えて
怪我をした時は冷静になる暇もないほどに、あっという間に事態は大きく動いていったという。
病院で全治6カ月の診断を受けた。手術を終え、ベッドに横たわり、現実に直面していく。
「想像がつかないケガ。(周囲で)誰もなったことがないケガ。誰も経験していない、未知の世界」。不安ばかりが募っていった。
リハビリでは痛みをどんなにこらえても滲み出る涙と脂汗を抑えることが出来ないほど過酷なものだった。
雨の日に松葉づえを使うのは滑ってこけてしまうので絶対ダメと言われ、イライラしストレスも溜まるし毎日を過ごしていた。
そんな辛い状況を乗り越え、今の自分がいるのは気遣ってくれた妻の敦子さんの存在だったという。
まとめ
スポーツ選手なら誰もが引退を考えるほどの大怪我を乗り越えて訪れた今回の結果。
現役続行と決めるも長期のリハビリ余儀なくされたが、あきらめなかった。背番号は「66」。
一度は地獄を見た男は「もっと状態を上げて、チームの貢献したい」とさらなる活躍をファンに誓った。